昭和43年8月31日 朝の御理解 

X第24節


 人に誘われてしようことなしの信心はつけ焼き刃の信心じゃ。真のつけ焼き刃の信心は取れやすいぞ。どうぞ。その身から打ち込んでの信心をせよ。世に勢信心と言うことを言うが、一人で持ち上がらぬ者でも大勢かけ声で一度に力をそろえれば、持ち上がる。ばらばらでは、持ち上がらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ。御理解24節は、どこを頂かねばならないか。そこんところが、一番大事なところです。そこんところを頂かねばならない。探究していきたいと思います。人に誘われてのしようことなしの信心は、はあ、いっぺん参って見なさい。参って見なさいと言われてるから、あんばい参って見なさい。参って見なさいと言われるから、あんばい参って見るとこれはしかし誰しも同じことなんです。誰でも初めから、金光様の信心をしようと言うて参って来るものはまずない。やっぱり、おかげを受けた人から、次々とたたいた地についていわば、誘われてまた、お参りする。けれども、そういう信心がね、いつまでもそういう信心であってはならない。いわば、そういうつけ焼き刃の信心はとれやすい。そこでどうぞ、その身から打ち込んでの真の信心せよとこう言われておられる。ですから、ここんところの打ち込む前にまず、これならば間違いない。これならば、打ち込んでも悔いはないと言う様な私は確信をもって、信心に打ち込んで行かなければ、いけません。その身を打ち込んでのまことの信心をせよ。信心もいろいろある。たくさんある。私はまず、信心の中でも真の信心と言うのは、そうあるのではない。どこをもってなら、真の信心じゃ。これは本物だと言うことが言えるか。そこんところが私はまず、お互いにね、見極めなければ、いけないと思うのです。唯話を聞いて、なるほどもっともなことを言われる。なるほどと合点が行くようにあってもですね。それ方だ。ご利益を頂くおかげを頂くだけではいけない。それは、あまりもの言葉、それは、横はん談義ではいけない。ただ、ご利益を頂くと言うだけなら、それは、石の地蔵様を拝んでもご利益は頂ける。それは、我が心に神がござるから、一心をたてれば、おかげになるとおっしゃるように信心の世界に言わば、不思議な世界があってそこにまた、不思議なおかげを受ける例はたくさんある。だから、ご利益を頂くから、おかげを頂くからでは私は本当の信心と言うことは、言えない。それでも、おかげを頂くから、言うような事だけではいけない。そんなら、何々様でも何々様でもやはり、こちらが一心をたてれば、おかげを頂くのでございますから、それが誠の信心とは言えない。御理解5節の最後のところに生きた神を信心せよ。この方が祈るところ天地金乃神と一心なりというところがありますね。御理解5節の最後のところ、生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。この方が祈るところ天地金乃神と一心なり。ここのところが少しはっきりに参りますと大体信心がわかりますね。天地とのつながり、しかもそれが、生きたつながり、また天地の生きた働き、神様の信心はたくさんあるけれども、ただ、我が心に神がござるから一心を立てれば、おかげになるじゃというようないわゆるおかげではいけない。自分の願いを聞き届けてくださるならば、何々教でもよかというわけにはいけんと私は思うのです。まず、信心が生きておらなければ、いけない。ですから、なら金光教の信心でもですね。そう生きていなかったら、もう駄目なんだと言うことになるわけなんです。生きたものが、例えば、その教会にもしないとするなら、もうそれはだめだ。それは、金光教の信心でも私、それは言える。まず、第一生きておるなけねばならない。生きた信心をせよ。天も地も昔から死んだことなし。いかに天地が生き生きとして、ござっても天地のいわば、躍動と言うか、いや、すさまじいまでにあっても、こちらの心にいきたものがなかったら、もう生きた働きを表わすことは、できない。こちら自体の心が生きたおらなければ、ならない。この方が祈るところ天地金乃金と一心なり。教祖生き神金光大神様が、取り次ぎしてくださっておる。祈ってくださっておる。そのことは、もう天地と一心だ。昨夜御祈念がすみましてから、今日甘木の教会で筑水連合会の信心研修会がございます。今度は本部入殿と同じ形式を取っての研修会、少しは念が入っておる。各教会から、それに出るようになっておる。ここからも、7名の方が、おかげを頂きます。各会を代表された方達がまあ、今度おかげを頂く訳なんですが、それには、そのもちろん合楽の信心を言わして来ると言うのではなくて、めいめいがやはり、甘木に行けば、甘木の信心を頂いてくる。同時にまた、九州では長老と言われる大久保先生ですね。先生、二人が講師に見えるのですから、先生方の信心を頂いて来る。また、よその教会の信者さん方の信心にもふれてくる。そして、一段と合楽の信心を本当のものにいよいよして行くための私は信心研修ですから、めいめいがおかげを頂いてくるだけじゃあない。これはやはり、帰られたら一つの報告ぐらいして頂きたいと思うのです。ですから、それでも、やっぱり、あらかじめやらして頂くもんでお話し合いからして頂く中に久高先生がこういうことを言うておられます。これは、合楽の独断場、これだけは、合楽の物だと言ったような物がいろいろあるんですね。大ケ條か、七ケ條かいてある。その中にですね。取り次ぎの先生、お取り次ぎをしてくださる先生をですね。金光大神として頂けるということ。いわゆる、親先生が祈ってくださるところ、金光大神につながり、金光大神が祈ってくださるところ、いわゆる天地金乃神と一心になることにある。それですね。如実に合楽では出来ておると言うこと。だから、「金光様ー」と祈れば、天地に通うのであり、「親せんせいー」というて、願えば、もう金光大神につながるのであり、天地につながるのである。「神様」という前に「親先生」と言えば、それは、助かるのだ。そういう様なことを言われておられます。確かに合楽では、そういう皆さん、おかげを頂いておられるのである。いわゆる、親先生の言われる通りにしておれば、おかげを頂けるというのは、いわゆるそれだと思う。いわゆる親先生に対するきえということは、金光大神えのまえであり、同時に天地に対する所の帰依なのです。帰依がなからなれば、打ち込む事は出来ません。ですから、まず、私はその帰依が大事。帰依しなければ、ならない。なるほど、金光様の御信心はありがたいが、ありがたい前にまず自分たちが願うお取り次ぎを願う先生へのいわば、帰依がなされておるかどうか、先生あげん口ではいいなさるばってん、自分ではちょうおかげ頂いていなさらんではないか、とたとえば、言うようなものであっては、やはり、帰依は出来ませんよね。大丈夫、大丈夫、助かるがな。言うたっちゃ、先生自身が助かってござらなければ、心許ない。それをまた、昨日話したことですけれどもね。合楽ではね、私自身がおかげを受けておると言うこと。私自身がなるほど天地とのつながりがある証拠だとなるほど天地が私のために自由になってくださっておるほどしのおかげを見せてくださっておるのだ。同時にそれを聞かせてくださるのだ。これが、私は合楽のまあいうなら、独断場的なものだと、先生、だれだれがこげんなおかげを頂いたと昔話ではない。現実ただ今ここでおかげを受けておる実際の実証というものが、ですから、私は見なさい。私を見てくださいと言うて言えれるところに合楽の信心のまあ、ありがたさというものを私自身も感じます。皆さんもそう育てなければならない。ですから、ここにその身から打ち込んでの真の信心とこうおっしゃいます。その身から打ち込めるかどうか。これは、そういう信心、共励会などに参りますとですね。それは、もうものすごいまでに、熱心な信心をしておる人がたくさんおりますよ。あれだけの打ち込みをしてどうしておかげにならんじゃろうかと話をききよって思うくらいの信心を頂いておるのですけれどもですね。おかげになって現れていない。例えば、いうなら、打ち込み井戸のようなものです。いくら、打ち込んでもいくら打ち込んでも水が上がらない。もちろん、その水脈にあたらなかったら、いつまでたってもあがらないけれどもですね。水脈があたっておっても、ならポンプ自体ががちゃがちゃにくずれておっては、水は上がりはしません。ただ、打ち込む時に一生懸命にその御用をするとか、お参りすると言うだけではいけない。まず、自分自身ががちゃがちゃでは、いけない。自分自身が本気でやはり改まらしてもろうて実壁を目指して頂くところの信心がまず、なさらなければいけない。如何に打ち込んでも打ち込んでも、例えば、そこが不毛の地であるならばです。どんなによい種を蒔いても芽もでらないと同じこと。そこで私はまずね。そこんところを見極めなければいけないと思う。信心させてもらうものはしかもそれがなら、おかげを受けると言うことだけでなくて一番間違いないのはいわゆる、大天地、その大天地とのつながりの所を見なければ、いけないと思う。ただ拝みさえすりゃあ、おかげ頂く一心さえ、たてれば、おかげを頂くと言うような言わば、神様やら、仏様ではなくてなるほど、天地が自由になってくださるということ。合楽の教会のためにです。天地が自由になってくださる。天地が自由になってくださると言うことはどういうことかというとですね。これは、すさまじいことなんですよね。実を言うと、つい何日か前までは、もうそれこそ暑うてというてござったけど、今朝あたりはもう障子をしめなければ、寒いござる。どんなに大きなルームクーラーをいれたところでこんなに冷えやあしません。天地を冷やしてくださる。暑ければ、滾るように寒ければ、凍えるようにどんなにすばらしい扇風機をかけたところでこういう涼しい風を作ってくださることも出してもらうこともできんのです。それが、天地の働き、天地の働きのすさまじさ、そういうすさまじいまでの働きがです。自分の身の上にも家の上にも頂けるということなんです。天地が自由になってくださる。私どものためにそれは、金光大神の信心というのが、天地金乃神と一心なんだからです。親先生の信心が天地金乃神と一心だからなんです。金光大神と一心だからなんです。そういうことが、言えるでしょうが、苦しいときにはですね。それこそ、おぼれるものは藁をもつかむんで、もう助けてさえもらえば、何でもよかとごだるですけれどもね。それでは、私はあまりだとこう思うね。変なものに孫を作るということによってです。一生うかばれないことがある。一生どこではない。あの世までも浮かばれないことがある。そこで私はまず、そこんところを見極め、どういうふうに見極めるかというとですね。中途半端のものではなくてですね。天地との交流と言うか、つながりと言うか、そういうところを私は見て行かなければ、いけないとしかもそこには生きた天地に対するところの生きた信心ですから、金光様の信心が言うなら、必ずしも、間違いないと言うことではない。金光様の信心を頂いておっても、いわゆる如何に天地が生きてござっても取り次ぎそのものが死んでおってはだめなんです。取り次ぎを願う氏子が死んでおったら、もうだめなんです。取り次ぎを願う氏子が死んでおったら、もうだめなんです。取り次ぎを願う氏子が死んでおったら、もうだめなんです。ここに一つの三拍子が必要なんです。拝む相手が生きた天地である。それを取次いでくださるところの金光大神、取り次ぎの働きというものが生きた働きである。その取り次ぎを願わしてもらうところの信者氏子の心というものが、生きたものでなからなければ、いけないということ。この三つがそろわなければ、本当のおかげになってこない。いわゆる、すさまじいまでの天地の働きの身の上にも、家の上にも現わして行くことは、出来ない。そこでなら、皆さんがです。まあ、こうやって説明を受けますとなるほど金光様の信心は問題ないことがわかる。天地とつながりを感じる。金光大神のお取り次ぎの働きというものが合楽では生きた働きを現わしておる。*ならばです。お取り次ぎを願う所の信者氏子である。皆さんの心が果たして生きておるかどうか。皆さんの心自体が生きたものかどうか。なら、生きた信者とは生きた心とはどういうことか。とそこんところを切り詰めて自分の心が生き生きとして来ることをまず、願わなければ、ならん。それでも、なお且つおかげを受けられないなら、まず、自分の一番力になってくれる人に頼むほかにない。いわゆる、主人が信心しておるなら、家内に頼むほかない。子供が信心しておるなら、親に頼むほかない。親が信心しておるならば、子供に頼むほかにない。そこに次に世に勢信心と言うことをいうが、一人で持ち上がらぬ石でも大勢かけ声で一度に力を添えれば、持ち上がるがばらばらでは持ち上がらぬぞ。家内中勢を揃えた信心をせよ。自分一人で持ち上がらなくても家族中のものが、勢を揃えて信心させてもらうとおかげが受けられる。持ち上がる。*****それは、どこへ、行ってもその話が出る。とにかく、息子がようついてきません。家内がついてきません。自分が信心ができません。どういう信心をさせてもろうたら、家内が信心できるようになるか。ところが、合楽では、まず、信心させて頂くとほとんどの人が家族中老いも若きも合楽に合楽にと力を入れておる。これは、合楽の特別のもののように。合楽でたとえば、一年なり、二年なり信心しよると必ず、家内がついてくる。子供がついてくる。なぜかついてこなければ、ばからしいんだ。それを信心がまちがいなく証明出来る。(あとは聞き取れず、途中切れ。)